このページの先頭へ

茨城県土浦市・つくば市のホームページ制作、CMS、SEO対策、クラウド等を適正価格で提案するWEBソリューションパートナー

茨城探訪(Whoラボ)
     記事の並び順序:  

沼尻墨僊の寺子屋跡

沼尻墨僊の寺子屋跡

江戸時代後期、琴平神社境内に沼尻墨僊(ぬまじりぼくせん、1775~1858〔安永4~安政3〕年)の開いた寺子屋があった。
墨僊は号で、名を一貞、常治と称した。土浦藩士の太田留蔵・広瀬克斎に師事し、沼尻修平(陸其章)に筆法を学んだ。多芸多才で天文学・地理学に業績をあげ、物理学・土木技術に通じ、漢詩・書道・絵画にもすぐれていた。
享和3(1803)年、土浦中城町(現中央一丁目)琴平神社境内に寺子屋を開いた。

土屋神社

土屋神社

明治31(1898)年土屋家最後の城主・土屋挙公(土屋家11代・水戸藩主徳川斉昭公の17男)の子、正直氏から、当時川口町にあった土屋神社を城内に移すことを条件に、土浦町へ土屋家個人所有地である土浦城址を公園とする寄贈の申し出があり、公園化の資金として金壱萬円が添えられていた。
本格的に施工したのは昭和に入ってからで昭和9(1934)年に都市公園として完工した。

搦手門の跡

搦手門の跡

土浦城は、築城術上から難しいとされる大手門と搦手門が同一方向(東)に設けられている珍しい城である。有事の際に霞ヶ浦への脱出口としたためだといわれる。
外丸東面の北方寄りに位置し、東面した門で外枡形をなし、土橋を北側へ渡ると武家屋敷であった多計郭(たけくるわ、現筑波銀行本店営業部付近)へ入り、更に東方向に右折すると前川口門(町屋との仕切門)へ通じていた。

大手門の跡

大手門の跡

この地は、土浦城の正門(表門)の跡である。
当時は十二間(約21.6m)四方の二重の土塁と堀をめぐらした内枡形(うすますがた)であり、外側が単層の門、内側が二層の櫓門という造りであった。
元和8(1622)年に設置され、明治6(1873)年土浦城の廃城とともに撤去された。
現在は土浦幼稚園の東側に跡地の碑が建っている。

土浦市亀城プラザ

土浦市亀城プラザ

土浦市民の交流の場として文化講座、各教室、催し物などが開催されている。
一階は、パーティ、集会、商品展示会、即売会などの商業活動など多目的に使えるコミュニティ広場としての市民ホールや研修、会議などに利用できる会議室がある。
二階は、収容人員300人余の文化ホールや作品発表、展示展覧会場として使える展示室がある。

土浦市立考古資料館

土浦市立考古資料館

土浦市西部の上高津に位置し、近隣には宍塚大池があり、施設は国指定史跡上高津貝塚と考古資料館から構成され約5haの広さがある。
上高津貝塚に関する資料を収集・保存・展示するとともに、土浦市内の埋蔵文化財を調査・収集・保存・展示している。

上高津貝塚ふるさと歴史の広場

上高津貝塚ふるさと歴史の広場

土浦市内の考古資料を展示する考古資料館に併設した、縄文時代中~晩期の馬蹄形に広がる貝塚(44,080m2)。
霞ヶ浦周辺で発見されている最大規模の貝塚である。
貝塚付近から縄文時代後期の竪穴式住居、塩焼きの炉や装飾品、石器や土器他が発見されている。貝塚のある場所は昭和56(1977)年「ふるさと歴史の広場」として整備され、展示館や実物大の竪穴式住居が復元されている。

水天宮力石

水天宮力石

水天宮には「五十貫目」、「三拾八貫」と刻まれた力石が奉納されている。
力石は男石とも呼ばれ、当時は人の集まる神社の縁日などに神事に由来する娯楽の一つとして力自慢を競い合った石である。(一貫=約3.75㎏)

稲荷神社

稲荷神社

じゅ寅(えん)稲荷神社大明神。
創建は徳川幕府の末頃、土浦城に祀られたもので明治維新のころから水天宮と共に川口町土屋邸内に奉遷され、その後、小松町にお祀りされたが、昭和30(1955)年7月5日再び川口町に遷宮されたものである。
祭神は土浦城内にお祀りされていた諸神を合祀したものであると言われている。
古来より招福の神として商売繁昌、火難、病難除に祈念崇敬されている。

水神宮

水神宮

水神宮は天保7(1836)年1月に川口町の有志によって創建され、舟運業者、漁業関係者の守護神とされており、水難除、火災除、また水に関係のある商売には「商売繁昌」の神として古来より崇敬されている。
祭神は日本武尊の妃、弟橘姫である。
例祭日は7月19・20日で川口町三社奉賛会により御神輿が巡行される。

水天宮

水天宮本殿

日本三大水天宮のひとつ(他は久留米の水天宮、東京の水天宮)。
天保11(1840)年、久留米二十一万石城主有馬頼徳(よりのり)の三女竹姫が土浦九万五千石城主土屋寅直(ともなお)のところへお嫁入りの時、久留米水天宮の分霊を捧持し、土屋藩邸内に祀ったものがはじまり。
土浦市川口町の現在地に遷宮したのは昭和33(1958)年7月5日。
霞ヶ浦湖畔に、鳥居と本殿がひっそりと建つ。

土浦市役所

土浦市役所

土浦市は、東に我が国第二の広さを誇る霞ヶ浦、西に万葉の世から名峰と謳われた筑波山を臨む、水と緑に恵まれた歴史と伝統のある茨城県南部の中核都市として発展してきた。

位置は、東京から60km圏内、成田国際空港から約40km、筑波研究学園都市に隣接することで、地理的条件に恵まれている。

善応寺観音堂

善応寺観音堂

善応寺境内にあり、建物は木造平屋建、入母屋、桟瓦葺(当初は土葺)匂欄(こうらん)付の浜縁(はまえん)が廻る。三軒の軒裏と急勾配の屋根をもち、向拝は平入り一間の流向拝であろ。漆喰鏝絵の妻飾りと鶴亀をあしらった懸魚(げきょ)などがある。
初建は寛文10(1670)年、土屋数直入部後に、土浦城の鬼門を守護するために建てたと伝えられる。この建物は文化11(1814)年再建のものである。木篇額「聖観音」は佐久間東雄の書である。

善応寺

善応寺

創建は南北朝以前にさかのぼる。近世になり土浦城主歴代の保護を受け、観音堂は寛文10(1670)年に土屋数直が土浦城の鬼門除けとして寄進したもので、現存の観音堂は文化11(1811)年の再建である。

照井の井戸

照井の井戸

土浦市真鍋の照井山善応寺(しょうせいざんぜんのうじ)境内にある市指定文化財「照井(てるい)」には数百年前から清らかな水が湧き続けている。
水量が豊富でどんな日照りでも枯れることがなく、夏は冷たく冬温かい水が湧くこの井戸には、鹿島神宮の神様が突いてできたという言い伝えや、この地に来ていた弘法大師がのどの渇きを潤そうと水を探したが見つからないため、錫杖(しゃくじょう)を突いて水を湧きださせた、という説もある。

聖徳太子堂

聖徳太子堂

聖徳太子堂は、日本文化と日本仏教の元祖である聖徳太子を祀る。
境内の聖徳太子報恩碑は、昭和11(1936)年に土浦の有志により桜川畔に建てられ、次いで昭和40(1965)年、土手の改修工事のため移されることになり、時の市長であった天谷丑之助氏の厚意により、土浦五職組合の人々が、亀城公園内に移し、御堂を建て太子御尊像を奉納した。
以降、五職組合の人々が聖徳太子奉讃会を興し、職祖神として太子をお祀りしている。

土浦菊まつり

土浦菊まつり

昭和25年に土浦市霞菊協会が主催で開催されたのが菊まつりの始まりである。
毎年、会場には会員が丹精込めて育てた約800本(450鉢)もの丹精込めた力作や珍しい品種の菊花が展示され、盆養・懸崖・盆栽・切り花の部門では品評会も行われている。

土浦城址(亀城公園)

櫓門

現在は本丸と二の丸の一部を整備、造園した茨城百景選出の「亀城公園」として市民の憩いの広場になっている土浦城址。
土浦城が最初に築かれたのがいつなのかは明らかではなく、室町時代の永享年間(1424~1440年)に若泉氏が築いたものと伝えられている。
戦国時代には小田氏、菅谷(すげのや)氏の居城として戦火が繰り広げられ、江戸時代初期には、松平氏、西尾氏、朽木氏、中期以降には譜代大名土屋氏が代々城主となり、現在知られている土浦城は江戸時代に歴代の城主よって整備されたものである。