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茨城探訪(Whoラボ)
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花蔵院

花蔵院

いつごろ開山したかはっきりしないが、元文(1736~1740)の地図には既に載っている。
不動堂の裏に江戸時代の町人学者、沼尻墨僊の墓がある。
墨僊は塾「天章堂」を開き、82歳まで教育に携わった。和歌や詩文、書画に長け、天体観測も行い、「大興地球儀」を創作している。
また、同墓地には墨僊の養父沼尻石牛の墓碑や土浦藩医高野四明の墓がある。

等覚寺のクロマツ

等覚寺のクロマツ

市指定名木・古木に指定されている等覚寺のクロマツ。
樹種はマツ科であり、樹木の形状は、樹高は4.6m、胸高周は1.33m、葉張りは東西に8.9m、南北に103.mである。
国指定重要文化財の銅鐘がつるされている鐘楼から本堂に向かう参道は、枝を伸ばしたクロマツに覆われ、参拝者はその自然のアーチを潜り抜けることになる。

等覚寺鐘楼

等覚寺鐘楼

等覚寺(とうがくじ *等は草冠に寺、覚は旧字の覺)鐘楼は、土浦在住の大工金子清吉の手により慶応元(1865)年に建てられ、国指定重要文化財の銅鐘がつるされている。
上部構造は、礎石に四方転びの円柱を立て、腰貫・虹梁(差し物)・頭貫・台輪・小屋梁で主要軸組を構成している。

等覚寺

等覚寺

寺伝等によれば、等覚寺(とうがくじ *等は草冠に寺、覚は旧字の覺)の前身は、常陸藤沢にあった藤沢山三教(さんごう)閣極楽寺、その開基は了信と伝えられる。
小田氏十五代氏治(天庵)の弟治算(慶円)によって、慶長10(1605)年に現在地に移り、寺号を蓮光山正定聚院(れんこうざんしょうじょうじゅいん)等覚寺と改められた。

銅鐘(等覚寺)

銅鐘(等覚寺)

旧国宝である等覚寺(とうがくじ *等は草冠に寺、覚は旧字の覺)の銅鐘は、市内穴塚般若寺、潮来市長勝寺の鐘と共に常陸三古鐘のひとつに数えられている。総高134.9cm、外径73.8cm。
建永年間(1206~07)小田氏の祖「筑後入道尊念」すなわち八田知家(はったともいえ)が、極楽寺に寄進したものである。

南門の土塁

南門の土塁

東光寺のそば、県道24号線(土浦境線)の大町交差点に土浦城南門跡があり、水戸街道を江戸に向かうこの土浦城南門の左右、当時の上沼、下沼をつなぐ堀に沿って、土塁が構築されていた。
東光寺本堂裏の墓地南東隅の一段高くなったところが、その遺構である。

辻元順の墓

辻元順の墓

辻元順(つじげんじゅん)は享和3(1803)年、茨城県安居(あご)村(現 笠間市岩間)の医師岡本元隆の子として生まれ、土浦藩医辻益順の養子となり、天保3(1832)年、藩に仕えた。
のち、和歌山藩医華岡青洲にオランダ流外科を学び、土浦に帰ってからは藩主の侍医を勤め、また産科を兼ねて医療にあたった。
明治13(1880)年に没し、東光寺に墓がある。

南門の跡

南門の跡

東光寺南門土塁跡のそば、県道24号線(土浦境線)の大町交差点に土浦城南門跡がある。
享保12(1727)年に大町が築かれるまではこの地が土浦城の南端で、正面の太い道路となっているところには川が流れていた。
土浦城と水戸街道の整備に伴い、慶長18(1613)年に川には簀子(すのこ)橋が架けられ、正面に南門、脇に番所が置かれると共に、川の向こう側には「枡形」と呼ばれる城の防御設備が整備された。

東光寺瑠璃光殿

東光寺瑠璃光殿

東光寺は慶長12(1607)年、心庵春伝(しんあんしゅんでん)によって開かれたと伝えられる。
東光寺にある朱塗りの建物は瑠璃光殿(るりこうでん)と呼ばれる薬師堂で、市指定文化財である。
桁行(けたゆき)・梁間(はりま)とも方三間の平入りであり、桟瓦葺入母屋(さんがわらぶきいりもや)の屋根をのせる。

東光寺

東光寺

東光寺は慶長12(1607)年、心庵春伝(しんあんしゅんでん)によって開かれたと伝えられる。
境内にある朱塗りの建物で瑠璃光殿(るりこうでん)と呼ばれる薬師堂があり、市指定文化財の建造物である。
この堂前には二基の句碑が並んでいる。一つは芭蕉の句「八九間空で雨降る柳かな」で、嘉永5(1852)年の蕉翁百五十九年忌に建てられ、もう一方は、内田野帆(やはん)の句「声に身を持たせて揚る雲雀かな」である。さらに堂の左手には、乃木将軍外祖父の長谷川金太夫翁之墓の史蹟がある。

郁文館の正門

郁文館の正門

土浦藩の藩校、郁文館の名称は、第七代藩主の土屋英直が付けたもので、はじめは土浦城内に置かれていた。
天保10(1839)年、第十代藩主、土屋寅直(ともなお)の時、この地に新築して移った。
一名、文武館ともいい、文館と武館にわかれており、学者として有名な藤森弘庵(ふじもりこうあん)や剣客の島田虎之助が指導にあたっていた。

遊覧船ホワイトアイリス号

遊覧船ホワイトアイリス号

霞ヶ浦の沖合を快走する86名乗りのワイドな遊覧船。
土浦港から桜川河口沖、旧予科練沖、霞ヶ浦総合公園沖など霞ヶ浦の雄大な自然を満喫できる周遊コースに加え、夏の観光帆引き船コースや冬の渡り鳥観察コースなどもある。
特に10~4月はユリカモメが船を追従し、直接手からエサを与える楽しみも味わえる。

観光帆引船

観光帆引船

帆引船(ほびきぶね)とは、風の力を利用して引き綱で引っ張り漁を行う帆船のことをいう。
旧霞ヶ浦町の漁師で発明家でもあった折本良平氏が明治13(1880)年に考案し、当時シラウオ漁で使用されていた大徳網に代わり、この帆引網漁業が用いられるようになった。
霞ヶ浦で行われたこの操業は、1960年代なかばに一旦途絶えるが、昭和46(1971)年に観光船として復帰した。
現在は、春から秋にかけて観光用に運航している。

霞ヶ浦

霞ヶ浦

霞ヶ浦は、日本百景に選定されている茨城県南東部に広がる淡水湖である。
霞ヶ浦という名称は西浦、北浦、外浪逆浦(そとなさかうら)、北利根川、鰐川、常陸川の各水域の総体を指す。
湖面積220.0km2は日本第2位で、海の入江が塞がれて形成された海跡湖である。主な水域別の面積は次の通り。

吾妻庵総本店

吾妻庵総本店

明治6(1873)年創業の旧水戸街道(中城通り)の老舗そば店。
関東一円に支店があり、ここがその総本家にあたる。
打ちたての歯応えある細麺、醤油とダシは創業以来変わらぬ味を守り続け、丼ものは一切なく、蕎麦とうどんだけのメニューである。

旧茨城県立土浦中学校本館

旧茨城県立土浦中学校本館

明治37(1904)年12月に竣工し、明治38(1905)年3月に土浦中学校として完成。
立田校舎より真鍋台の新校舎に移転する。
この新校舎は西欧の香り漂う様式で、当時生徒はもちろん、真鍋、土浦の人々にも大きな話題となった。
平面構成は、凹字型の左右対称で、正面を重視した古典的な手法をとり、廊下を教室の西側に配した点は、当時の学校建築の基本に従ったものである。

土浦市役所の冬桜

土浦市役所の冬桜

土浦市市役所で12月に桜が見頃を迎えている。
品種はソメイヨシノの一種で高さは約6メートル。春と晩秋から初冬にかけて2度開花し、花は直径1センチ程度の淡いピンク色が特徴である。
一気に満開にならず、少しずつ咲くため長期間楽しめる。

土浦マラソン大会

土浦マラソン大会

土浦市市制施行70周年(2010年)で45回目を迎える、新治運動公園開催の市民マラソン大会。
走行距離は各部とも5km以下に設定されており、一般男女(高校生含む)の部が5km、中学生男女の部が3km、小学生男女の部で3-6年生が2km、1-2年生が1kmのコースを走る。
例年1,500人ほどの参加者があり、完走すると記録、順位の入った完走証明書が交付される。