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茨城探訪:史跡
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清瀧寺

清瀧寺

坂東三十三箇所の第26番札所で、清滝観音とも称される。
真言宗豊山派の寺院、山号は南明山、院号は慈眼院。
御詠歌:我が心 今よりのちは濁らじな 清滝寺へ まいる身なれば
歴史は古く推古天皇15(607)年に聖徳太子が自ら彫りこんだ聖観音を本尊として現在の背後にある竜ケ峯に開山し、大同年間(806~810)に徳一上人によって古観音に移築されたという。

小野小町の墓

小野小町の墓

小野小町の墓(石造五輪塔)。
小野小町は、絶世の美女とうたわれた平安時代の歌人で、言い伝えによると、京都から奥州(東北地方)に旅する途中、清滝観音から北向観音(石岡市小野越(旧八郷町))へ向かいお参りしたあと病に倒れ、この地の村長、小野源兵衛氏宅で親切な介抱を受けたが、元慶7(883)年7月7日69歳でなくなったといわれている。
小野家では、小町がこの世を去って以来、例年7月7日(旧暦)の命日には、代々供養を続け、昔は近郷からの参詣者がかなりあったようである。

小野小町の腰掛石

小野小町の腰掛石

この石は、平安時代の歌人として有名な小野小町が、北向観音に参詣のため山越えの途中休息したところと伝えられている。
小町はここで、一息入れて近くの沢でのどを潤し(水飲み沢)元気を取り戻して、峠を目指し(小野越え峠)無事に北向観音に詣でることができた。
しかし、帰路病を得て「小町の里」でその生涯を終えたという。この里に「小町の墓」がある。

日先大神道と地蔵尊の道標

日先大神道と地蔵尊の道標

中村一丁目交差点にふたつの道標がある。
右は明治5(1872)年に「日先大神道」と刻まれた日先神社までの距離を示した石標、左の小さな地蔵尊は、寛政5(1793)年のもので、市野谷(笠間市)と龍ケ崎への道標である。

川口川閘門の鉄扉と揚水ポンプ

鉄扉と揚水ポンプ

江戸時代に城下町として栄えた土浦は、桜川が霞ヶ浦に注ぎ込む河口の低地につくられた町で、町の中には中小の河川や数多くの水路や濠があった。
この地も、城や商家の物質輸送に盛んに利用されていた川口川の名残で蛇行しており、JR常磐線の線路の下からモール505を抜けて亀城公園の濠と繋がっていた。

下高津の道標

下高津の道標

下高津の道標は旧水戸街道下高津の坂の中ほど、坂東街道との分岐点にある。
享保18(1733)年に東崎町女人講の人々によって建てられ、土浦市では真鍋の道標についで古く、坂東街道がどこを通っていたかを知る貴重な標石である。
道標には「右 江戸道」「左 なめ川 阿ば道」とある。
右は旧水戸街道(江戸街道)、左は、根絡道(ねがら)(根崎、小松方面)と阿波街道(小松台、大岩田方面)に分かれていたが、現在は霞ヶ浦医療センターがあり、交通不能となっている。

西門の跡

西門の跡

土浦城防備のため松平信吉が西門を設置し、のちに小規模な馬出しが追加された。
当時は、土塁や堀があったが、現在では神龍寺の西北部墓地の一角にわずかに土塁の一部を見て取ることができる。
この西門も南門や北門と同様、明治6(1873)年の太政官布告(だじょうかんふこく)で取り壊されることになったが、新治県庁に払い下げられ、その後、新治の民家に移築されて現存しているようである。

沼尻墨僊の墓

沼尻墨僊の墓

花蔵院の不動堂裏手、民家の庭先のようなところに沼尻墨僊の墓はひっそりと建っている。
墨僊(ぼくせん)、名は一貞、通称常治(のち完蔵)、墨僊は号である。
安永4(1775)年3月15日土浦田宿町(現大手町)五香屋中村治助祐玉の第九男として生まれ、中城天神町(現中央一丁目)の町医沼尻石牛の養子となった。

南門の土塁

南門の土塁

東光寺のそば、県道24号線(土浦境線)の大町交差点に土浦城南門跡があり、水戸街道を江戸に向かうこの土浦城南門の左右、当時の上沼、下沼をつなぐ堀に沿って、土塁が構築されていた。
東光寺本堂裏の墓地南東隅の一段高くなったところが、その遺構である。

辻元順の墓

辻元順の墓

辻元順(つじげんじゅん)は享和3(1803)年、茨城県安居(あご)村(現 笠間市岩間)の医師岡本元隆の子として生まれ、土浦藩医辻益順の養子となり、天保3(1832)年、藩に仕えた。
のち、和歌山藩医華岡青洲にオランダ流外科を学び、土浦に帰ってからは藩主の侍医を勤め、また産科を兼ねて医療にあたった。
明治13(1880)年に没し、東光寺に墓がある。

南門の跡

南門の跡

東光寺南門土塁跡のそば、県道24号線(土浦境線)の大町交差点に土浦城南門跡がある。
享保12(1727)年に大町が築かれるまではこの地が土浦城の南端で、正面の太い道路となっているところには川が流れていた。
土浦城と水戸街道の整備に伴い、慶長18(1613)年に川には簀子(すのこ)橋が架けられ、正面に南門、脇に番所が置かれると共に、川の向こう側には「枡形」と呼ばれる城の防御設備が整備された。

桜橋の跡

桜橋の跡

桜橋は、慶長9(1604)年の水戸海道・一里塚の整備に伴う幕府の直轄工事で、慶長18(1613)年に作られ、名前の由来は中世の桜川がここを本流としていたことによると言われている。
旧桜川(川口川)は昭和初期に暗渠となり現在は道路であるが、交差点の下には明治34(1901)年に竣工した煉瓦造りの橋が埋まっている。
現在、橋の遺構親柱土浦町道路元標等が周辺に残っている。

第五十国立銀行本店跡

第五十国立銀行本店跡

昭和初期の五十銀行本店、後に常陽銀行土浦支店となる。
煉瓦造りの建物で、中城町(現中央一丁目)まちかど蔵の駐車場に建っていた。
明治11(1878)年、第五十国立銀行本店として、土浦藩士族によって創立され、大正12(1923)年に株式会社五十銀行となり、昭和10(1935)年、常磐銀行と合併して、常陽銀行となる。

土浦町道路元標

土浦町道路元標

道路元標とは、大正8(1919)年に国道の始まる地点を示すため、当時の道路法にもとづいて設置された標識をいう。
現在土浦町道路元標がある場所は中城通りと亀城通りとの交差点にあり、かつて桜橋が架けられていたところにある。
桜橋は水戸街道の橋として、城下町の中心地にあったことが当時の地図から読み取れる。

桜橋親柱

桜橋親柱

現在の亀城通りは、かつて存在した川口川を埋め立てたものである。
旧水戸街道の川口川渡河地点に架かっていた橋を「桜橋」という。
昭和10年(1935年)に川が埋め立て祇園町が誕生するまで、桜橋には船がのぼり、水陸交通が交差する地であった。
現在の亀城通りと中城通り(旧水戸街道)の交差点には「櫻橋」という文字が刻まれた桜橋の遺構がある。

退筆塚の碑

退筆塚の碑

江戸時代後期に沼尻墨僊(ぬまじりぼくせん)の開いた寺子屋があった場所で、文久2(1862)年、墨僊の七回忌に門弟たちによって学徳を偲んで建てられた退筆塚(たいひつづか)の碑。

桜橋跡

桜橋遺構

現在の亀城通りは、かつて存在した川口川を埋め立てたものである。
旧水戸街道の川口川渡河地点に架かっていた橋を「桜橋」という。
昭和10年(1935年)に川が埋め立て祇園町が誕生するまで、桜橋には船がのぼり、水陸交通が交差する地であった。

土浦領境界石

従是北土浦領

この境界石は、江戸時代に水戸街道に面して土浦領と他領との領界に建てられていた。
「従是北土浦領」は現在の土浦市中村に、「従是南土浦領」は中貫にあり、それぞれ塚が築かれ、その上に設置されていた。
土屋篤直の書いた『土浦道中絵図』の中にも、この境界石が描かれている。