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茨城探訪:建造物
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等覚寺鐘楼

等覚寺鐘楼

等覚寺(とうがくじ *等は草冠に寺、覚は旧字の覺)鐘楼は、土浦在住の大工金子清吉の手により慶応元(1865)年に建てられ、国指定重要文化財の銅鐘がつるされている。
上部構造は、礎石に四方転びの円柱を立て、腰貫・虹梁(差し物)・頭貫・台輪・小屋梁で主要軸組を構成している。

郁文館の正門

郁文館の正門

土浦藩の藩校、郁文館の名称は、第七代藩主の土屋英直が付けたもので、はじめは土浦城内に置かれていた。
天保10(1839)年、第十代藩主、土屋寅直(ともなお)の時、この地に新築して移った。
一名、文武館ともいい、文館と武館にわかれており、学者として有名な藤森弘庵(ふじもりこうあん)や剣客の島田虎之助が指導にあたっていた。

旧茨城県立土浦中学校本館

旧茨城県立土浦中学校本館

明治37(1904)年12月に竣工し、明治38(1905)年3月に土浦中学校として完成。
立田校舎より真鍋台の新校舎に移転する。
この新校舎は西欧の香り漂う様式で、当時生徒はもちろん、真鍋、土浦の人々にも大きな話題となった。
平面構成は、凹字型の左右対称で、正面を重視した古典的な手法をとり、廊下を教室の西側に配した点は、当時の学校建築の基本に従ったものである。

土浦まちかど蔵「野村」

まちかど蔵 野村

江戸時代より続く商家「野村家」が明治時代より砂糖商を営んできたところで、安政7(1860) 年に建てられたものである。
母屋と袖蔵、文庫蔵、レンガ蔵を改修し、民俗資料の展示、解説、観光安内などに開放している。
母屋部分は観光客の休憩所、はた織り体験教室として利用され、二階部分は予科練関連の資料展示室となっている。

土浦まちかど蔵「大徳」

まちかど蔵 大徳

脇街道の一つであった水戸街道は江戸時代のはじめに五街道に準ずる扱いを受けて、街道の整備が進み、この地域にあった中城と東崎の2つの集落の間が結ばれて土浦宿が誕生した。
この宿場の中心が中城通りで、鉤の手にまがった地形をしており、今なお昔ながらの宿場町のある街道の名残を伝えている。
この街角に、江戸時代に建てられた商家を市が買い取り、「土浦まちかど蔵」と称し「大徳」と「野村」の2軒が向かい合って並びんでいる。

矢口家住宅(附家相図七枚)

矢口家住宅

矢口家住宅は土蔵造りで、店蔵と袖蔵、別々に建てられた奥の元蔵より成る。
旧水戸街道に面した店蔵・袖蔵の間口は合わせて七間半である。
土浦城下の土蔵造りは、天保12(1841)年の土浦大火後、瓦葺などと共に塗籠造りという防火構造として取り入れられたものである。
矢口家住宅の建築年代は、店蔵と袖蔵が嘉永2(1849)年,元蔵が慶応年間(1865~1867年)で、茨城県内に現存する土蔵造りの商家建築のなかでは特に貴重なものであリ、現在も矢口酒店として営業をしている。

土浦城旧前川口門

土浦城旧前川口門

この門は、親柱の背面に控柱を立て、屋根を架けた高麗門である。高麗門は城郭の門として建てられた形式のひとつで、この門も、武家屋敷であった多計郭(たけくるわ)と町屋の間を仕切る「前川口門」であったといわれている。江戸時代末期の建築である。
明治18(1885)年に土浦戸長(こちょう)役場(のちの町役場)の門として、さらに大正8(1920)年には田宿町(現大手町)の等覚寺山門として移され、その後、寺の寄贈を受けて、土浦城内の二の丸入口にあたる「二之門」のあったこの位置に、昭和56(1981)年移築されたものである。