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テクノ・ポップ

テクノ・ポップ

1974年にリリースされたドイツ出身のクラフトワーク「アウトバーン」はドラムマシンとシンセサイザーによるミニマリズムをロックに導入し、パンク以降のニュー・ウェイヴにテクノという概念を提示した。ミュージシャンの人的演奏テクニックを排した無機的なコンピューターソフト主導によるデジタル・シーケンサーの登場である。

日本では、冨田勲「月の光」(1974年)のシンセサイザーによる多重録音の楽曲リリース、日本で初めてハモンドオルガンを使用したゴダイゴのリーダーであるミッキー吉野が関わったローランドのシンセ開発といった電子音楽の功績があり、1978(昭和53)年にイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が登場するのである。リーダーの細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏から成るYMOは、 1stアルバム「Yellow Magic Orchestra」のアメリカ・リミックス盤が欧米のディスコで話題となり、日本国内でも注目を集め、「テクノポリス」「ライディーン」を収録した2ndアルバム「ソリッド・ステイト・サバイバー」(1979年/昭和54)でテクノ・ポップを確立し、翌年レコード大賞ベストアルバム賞(1980年/昭和55)を受賞している。 YMOは革新的な電子音楽を携え2度の世界ツアーを敢行、デザイナーでもある高橋幸宏が考案した赤い人民服、テクノカットというビジュアル面がファッションにも影響を与え、当時の小学生をも巻き込んだテクノ・ポップ現象を呼び起こした。

ブームは、プログレを前身としたP-モデル、演劇集団のヒカシュー、米国・欧州ツアーを展開したプラスチックスの「テクノ御三家」などの活躍を喚起し、テクノ・ポップのメソッドは歌謡界にも浸透していった。沢田研二の「TOKIO」(1980年)、イモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」(1981年)、スターボー「ハートブレイク太陽族」(1982年)や近田春夫プロデュースのジューシィ・フルーツ「ジェニーはご機嫌ななめ」(1980年)などが挙げられる。

テクノ御三家は大手レコード会社のメジャーデビューが足枷となり、シーンから遠ざかり、 YMOはメンバー間の音楽的な確執もあり、一年間の休業を挟んだ1983(昭和58)年、商業主義に対するアイロニーともとれる歌謡曲路線のヴォーカル曲「君に、胸キュン。」をヒットさせ、同年に散開。ブームは衰退したが、テクノ・ポップがもたらした打ち込みサウンドの録音スタイルは、のちの音楽界の大きな資産として受け継がれていった。(2001年12月23日)

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