このページの先頭へ

茨城県土浦市・つくば市のホームページ制作、CMS、SEO対策、クラウド等を適正価格で提案するWEBソリューションパートナー

関西フォーク

関西フォーク

コマーシャリズムに吸収された東京のカレッジ・フォークに対して、関西では、社会の矛盾、体制への反抗といったアメリカで起きたモダン・フォークの社会背景を日本なりに再現したプロテスト・ソングが、民衆レベルの生活を源泉とする運動から派生し、フォークが日本の土壌で結実しようとしていた。関西フォークの登場である。

1967(昭和42)年、秦政明によって関西フォークの拠点となる高石音楽事務所が設立、高石友也、岡林信康、中川五郎、五つの赤い風船らが集結し、アングラ音楽祭、フォーク・キャンプ、フォーク・ジャンボリー等を精力的に展開しながら、日本の風土に即したフォークの定着を促すことになる。

高石友也はボブ・ディランらを自らの言葉でカヴァーし日本の風土とフォークを見事に融合させ、フォークの神様と言われた岡林信康は「山谷ブルース/友よ」で民衆に迎えられ、反体制の代弁者となった。

1967(昭和42)年12月、関西フォークの名を全国区に押し上げた衝撃的なイベントが起こった。若者文化の深夜の解放区であったラジオの深夜放送番組からフォーク・クルセダーズ「帰ってきたヨッパライ」がオンエアされ、自主制作アルバムに収録されたオリジナル曲は東芝よりメジャー発売され、ダブルミリオンを記録する空前の大ヒットとなった。不協和音、レコードの早回しといった実験的サウンドは、音楽性はもちろん、ヒットの経緯も既存体制とはまったく違った側面を見せていた。さらにアンダーグラウンドのフォークを牽引する高石音楽事務所は、既存のレコード会社下の自主規制を打ち破るため1969(昭和44)年に日本初のインディーズレコードとなるURC(アンダーグラウンド・レコード・クラブ)レコードを立ち上げ、高田渡、遠藤賢司、はっぴいえんど、ジャックスらの関東勢とも交流を深め、オルタナティヴな名盤を世に送り出している。

1960年代後半は70年安保を目前に控え、ベトナム戦争問題、羽田闘争、三里塚闘争といった全共闘による学生運動が本格化し、政治問題が音楽に与える影響も大きく、1969(昭和44)年2月、新宿駅西口地下広場でギターを抱え声高にプロテスト・ソングを歌うベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)によるフォーク・ゲリラが自然発生的に出現している。

アンダーグラウンドで発展した関西フォークも自らの音楽性を追求し、URCレコードの設立などの商業ベースを意識する二律背反に陥り、反体制運動の対象が高石音楽事務所に向けられるという局面に至り、関西フォークの両輪である高石友也は渡米、反体制の騎手に疲弊した岡林信康はボブ・ディランの動向に影響を受けフォーク・ロックへの接近を試行していく中、フォークに新たなシーンをもたらした伝説的イベントが開催された。1971(昭和46)年の第3回中津川フォーク・ジャンボリーは、吉田拓郎という新たなヒーローを生み出し、関西フォークがその役割を終えることを示唆していた。

東大安田講堂陥落、70年安保敗北により政治運動は衰退し、フォークの視点も思想から遠ざかり、エレック・レコードやベルウッド、エキスプレスなどの専門レーベルが設立、井上陽水、かぐや姫、泉谷しげるなどのアーティストたちが次々と登場し、フォークはアングラからメジャーにシフトしていく。(2001年12月23日)

関連キーワード: ,
最近の関連する記事
過去の関連する記事