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ロカビリー

ロカビリー

アメリカでロックンロールは黒人ブルーズやジャズ用語のスラングとして古くから使われていたが、一般的に定着したのは、1950年代初頭に人気DJのアラン・フリードがNYの白人向けラジオ局でリズム&ブルーズ(R&B)をロックンロールと呼んだことが始まりとされる。
「リズム&ブルーズ」と「カントリー&ウェスタン」の要素融合が、ロックンロール誕生のキーワードである。R&Bをアップテンポのカントリー・ミュージックにリミックスしたビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ (BILL HALEY & THE HIS COMETS)の「ロック・アラウンド・ザ・クロック(Rock around the clock)」が1955年にヒット、その翌年にはエルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)が「ハートブレイク・ホテル(Heartbreak Hotel)」でメジャーデビューするが、彼らは初期の段階ではカントリー&ウェスタンに分類されていた。白人が演奏するR&Bテイストのロックンロール(Rock and Roll)とイギリス民謡をルーツに持つカントリー&ウェスタン(ヒルビリー[Hillbilly])が融合してロカビリー(Rockabilly)という合成語で分類された、プレスリーの故郷南部テネシー州メンフィスで胎動した黒人と白人の混血音楽は、ロックの初期のスタイルを形成しながら全米を席巻することになる。

日本に於いてアメリカ音楽界の未曾有のムーヴメントをいち早く取り入れたのは、C&Wを代表するバンド「小坂一也とワゴン・マスターズ」で1956年(昭和31)6月にリリースしたプレスリーのカヴァー盤「ハートブレイク・ホテル」であった。小坂一也は「和製プレスリー」と称され、女性のティーンエイジャーを中心に人気を博す。その後、C&Wバンドが次々とロカビリー化していった現象は容易に想像できる。

1958(昭和33)年2月に開催されたロカビリーの祭典「第一回日劇ウエスタン・カーニバル」の成功でロカビリーは社会問題になるほどの反響を呼んだ。先ずは平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬二郎による「ロカビリー三人男」を輩出し、「三人ヒロシ」(水原弘[後に守谷浩と交代]、井上ひろし、ヒロシ釜苑[現ムッシュかまやつ])と熱狂は冷めず、1959(昭和34)年、和製ロカビリアンが総出演したロカビリー映画が封切られ、ブームに翳りは見られないかと思われたが、実は1958(昭和33)年7月に発売した平尾昌章「星はなんでも知っている」のオリジナル曲のヒットが皮肉にもブームにくさびを打っていた。多くのロカビリアンたちがカヴァー曲と大きく乖離するナンセンス歌謡、時代物、民謡などの歌謡曲歌手へと転身する現象、早すぎたオリジナル・ソングの台頭である。カヴァーからオリジナル指向の波は、第1回日本レコード大賞受賞曲、水原弘「黒い花びら」にも顕れている(1959年/昭和34)。

時を同じくして本家アメリカのロックンロールのオリジネーターたちに異変が立て続けに起きた。1958年にロックンロールの始祖リトル・リチャードが、彼が乗った飛行機が故障し無事着陸するという事件後、神の啓示により引退を表明し宣教師へ転向。ロック界の奇才、ピアニスト・ロッカーのジェリー・リー・ルイスが13才の従妹マイラとの重婚がスキャンダル問題となる。同年3月、プレスリーが米陸軍に徴兵。1959年にロックンロール界の大スターたち、バディ・ホリー(「ザットル・ビー・ザ・デイ」)、リッチー・バレンス(「ラ・バンバ」「ドナ」)、ビッグ・ボッパー(「シャンティリー・レース」)が公演地へ向かうツアー用のチャーター機が墜落し死亡。ロックのギター奏法を築いた黒人ロッカー、チャック・ベリーが売春強要で告発され、人種差別の偏見から2年間服役。また、58年から59年にかけて発覚した事件、前述した「ロックンロール」という言葉をはじめて使い、ラジオ局で初めてプレスリーの「ハートブレイク・ホテル(Heartbreak Hotel)」を流した「ロックンロールの父」こと人気DJのアラン・フリードのペイオラ事件(ワイロ収賄容疑でDJ解雇)だ。当時をロックンロール・ファンは、「ロックンロールが死んだ年」と形容している。
この悲劇的な事件の影響とロカビリーの歌謡曲化により、日本のポップスはニール・セダカ、ポール・アンカ、コニー・フランシスといった第二期カヴァー・ポップスの時代を迎える。(2001年11月24日)

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